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『競馬名人読本』別冊宝島 234

宝島社 1995年

───── 競馬場の“シークレットゾーン”で競走馬を事故から守る人たち ─────

装鞍所の名人たち

絵と文 秋森 正

装鞍所の名人たち 各競馬場にある装鞍所はマスコミや馬主さえも入れないシークレットゾーン、ってほど大ゲサなモンじゃないけれど、まぁ、一般的にはあまり公表されてはいない所だと思う。かといって、べつに怪しいことをしているわけではない。レース後に何だかんだと問題が起こらないよう、鞍をつける前に馬体重やら馬の健康状態やらを検査する場所なのだ。ブリンカーやハミなどの馬具類も、ここでチェックされている。つまり調教師や助手、厩務員、騎手、そして装蹄師や獣医といった競馬を支えている面々が、様々な検査をしている施設が装鞍所だと思ってほしい。

 そして僕は今、中山競馬場の装鞍所で従事員(アルバイト)として働いている。通称「脚あげ」といわれる僕の仕事は、簡単にいえば出走する馬たちが履いている蹄鉄の種類をチェックするために、脚を一本一本じっさいに持ちあげること。なにしろひとりでその日に出走する全頭の脚を持つわけで、多いときには一日160~170頭にもなる。給料が歩合制でないのがチョッピリ悲しい。

■ 十何種類もある蹄鉄をチェック

 僕が馬の脚をあげて、装蹄師の先生が釘の緩みや蹄鉄の種類をチェックする。それが装鞍所での僕と装蹄師の先生との関係だ。僕はこの仕事をするようになって、蹄のカタチや質、そしていかに蹄鉄の種類が多いかも知った。ただ、ファンには、出走する馬たちがどんな種類の蹄鉄を履いているかを知りたくても、知る方法はほとんどない。そうした情報は専門誌にも載ってないし、テレビやラジオでも発表されていない。レーシングプログラムや場内の掲示板にも出ていないのだ。僕もたまに大井や川崎などの南関東の公営競馬場に行くと、出走各馬がどんな種類の蹄鉄を履いているか、公認予想屋のオッチャンが今でもスタンプでペタペタ押しているのを目にする。つまり、蹄鉄の種類そのものが予想をするうえでの重要なファクターのひとつということなのだ。なぜなら出走させる側にとっても重要だからこそ、その用途に合わせて種類もどんどん増えてきたのだ。そのうち、JRAもブリンカー同様に蹄鉄の種類も発表するようになるかもしれない…。ちなみにイソノルーブルが桜花賞を裸足で走ったことがあったが、あのときはかなり騒がれたのに、なぜふだんはほとんど無関心なんだろう。まぁ、ファン(僕も含めて)にパドックで蹄鉄の種類まで見分けろというのは無理な話だけど、でもよーく見ているとトモ(後肢)だけなんて3歳馬はけっこういたりする(気性難で蹄鉄を打てない)。平成5年の愛知杯を勝ったホマレオーカンなんかは、裸足で走って勝ったこともあるし……。

 その十何種類もある蹄鉄を装鞍所では一頭一頭、前肢後肢それぞれを記録しているのだ。脚あげ担当の僕が持ちあげて、装蹄師の先生がチェックする。レースごとにこの作業の繰り返し。その間に獣医の先生たちが馬の特徴やケガの有無や馬具なども、きちんと検査しているというわけだ。ひとレースの検査にかかる時間は正味5分といったところで、次々と入ってくる馬たちを渋滞させずに見なくてはならない。脚をあげるタイミングというか、馬との呼吸が重要になってくる。そして通常、検査する先生方は開催ごとに変わるので、そのたび僕は先生との呼吸も変えなければならないのだ。

 僕がいっしょに仕事をした多くの装蹄師の先生のなかでも、その代表格の名人を紹介しよう。

■ 凱旋門賞馬トニービンの装蹄師

 数年前のこと。僕は中山の装鞍所で、3歳新馬戦の出走前の検査を行っていた。ある一頭の馬の検査で、トモの蹄鉄を検査するために腰を落としてその馬に近づいた瞬間、僕は誰かにいきなりグイッと襟首を引っ張られ、うしろにゴロンと転がってしまった。「何だ?」と思ったのと同時に、僕の顔のすぐ近くを3歳馬のトモがもの凄いスピードで通り過ぎるのが見えた。「バカっ、気をつけろ」と、その馬の厩務員さんに言われ、僕はやっと間一髪で蹴られずにすんだことが理解できたのだった。

 新馬戦の検査というのは、ただでさえ馬がイレ込んでいるからとても危ない。ましてその3歳馬の尻尾には“蹴りますマーク(赤いリボン)”がついていた。決して気を抜いていたわけではなかったのだけれど、不用意に近づいていった僕のスキと馬の危険な気配を感じて、すばやく助けてくれた人がいたのだ。それは、その開催の蹄鉄検査を担当されていた装蹄師の先生であり、「名人先生」と呼ばれている人だった。

 「名人先生」=宮木秀治。5X歳。装蹄技術を競う全国大会を、二十数年前に優勝しているほどの腕まえだ。ホーリックスやベタールースンアップ、トニービンといった外国馬の装蹄までこなし、もちろん国内でも過去に手がけた名馬は数知れないと聞く。僕にとってはその日が先生との初対面だった。僕はそのとき、けっこう乱暴ともいえる先生の行動に少し戸惑った。でもそれ以上に先生の反応が、速くて、正確で、カッコよかったことに驚いてしまったのだ。

 そもそも装蹄師というのは、蹄を切ることや鉄を打つことだけでなく、危険を防ぐことも身をもって学んでいる。そうした先生の反応のおかげで僕は助かったのだ。

 さて、宮木先生と初めてコンビを組んだその日、前述した呼吸というかタイミング的な面で、僕はかなり戸惑ったことを覚えている。というのも、僕が馬の脚をあげる前から、先生はすでにチェックを終えているのだ。つまり蹄を裏返したときには、もう目は次の馬にいっているということ。初めのころ僕は????だった。蹄鉄の種類は出走前に申請してあるので、ある意味では検査そのものが形式的であり、流れ作業的に行われるわけだが、宮木先生はなにしろチェックが速い。見てないんじゃないのか? と思うくらい速すぎるのだ。当時の僕は「たぶん、流してるんだろうな……」と、勝手に思っていた。でも、それはまったくの思い違いで、名人の名人たる仕事を後に知ることになった。

■ 馬の方から吹く風で蹄鉄の緩みがわかる!?

装鞍所の名人たち ある日の装鞍所での出来事。いつものごとく「見てないんじゃないか状態」で、次々と検査をしていた宮木先生が突然、「その馬、ちょっと待った」コールをかけた。それはいかにも名人先生らしい穏やかで落ち着いた言い方だったが、きっと重要な何かを先生が発見したのだろうということも、その場の空気でわかった。そして先生が発見したのは一本の釘の緩み……。それも先生からは死角となっていた右後肢の外側の一本だった。その馬を止めて、後肢を持ちあげてじっくりのぞいて、やっとわかるような釘の緩み……。もちろん、たった一本の釘の緩みが、レース中での落鉄や思わぬ事故につながりかねないことは、キャリアを積んだ競馬ファンなら知っていることであろう。
「こっちの検査が終わったら、馬房に行って締めてやるよ」

 その馬の厩務員に向かって先生はクールに言った。 ふだんは事務的にこうした検査を受けているその厩務員も、さすがに名人先生の眼力に恐縮して頭をペコリと下げた。

 またある時には、十数メートル離れたところから異常を素早く発見したことがあった。周りにいるほかの装蹄師の先生たちでさえ「凄い」と感心してしまうほどだ。

 僕のようなシロウトには、どうやればそのような発見ができるのか、いまだに理解できない。
「ベテランになると釘の緩みとか、蹄鉄は何を履いているかだとかは、馬が歩くときの音でわかるもんだ」
 と、以前ある若手の先生が冗談のように話してくれたことがある。僕は、彼に、それとなく聞いてみた。
「宮木先生も、やっぱ音でわかるんスかね……」
 答えは違った
「名人は、それ以上だね。馬の方から吹いてくる風の匂いだけでわかるらしいよ」
 そんなわけないだろうと、僕もいろいろな蹄鉄の匂いを実際に嗅いでみたが、かすかにボロの匂いが漂っているだけだった。

別冊宝島 234

■出版物(エッセイ)


戦後スポーツヒーローベスト50

戦後スポーツヒーローベスト50
『千代の富士』編
(あの大横綱が弱かった?)
(桃園書房)

 
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大相撲熱血場所

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超私的!名・迷勝負十四番
(琴ノ若×朝青龍)
(千代の富士×栃赤城)
(千代の富士×枡田山)
(桃園書房)

 
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万馬券が出た!

万馬券が出た!
(秘)公開・装鞍所でのトウカイテイオー
(平成4年の有馬記念回顧/
メジロパーマー×レガシーワールド)
(別冊宝島)

 
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装鞍所の名人たち

装鞍所の名人たち
競馬場の“シークレットゾーン”で
競走馬を事故から守る人たち
(別冊宝島)

 
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